中学16「八代マジック」

今度の東海大会は八代先生と私の二人だけで岐阜の長良川競技場に行った。

僕の目標は11.34を出すことだったが、八代先生には内緒だった。
八代先生は手動で11.5が電気の11.74に当たる為
(手動計測だと0.24秒の誤差が生じるとされているため)
11.74くらいが今日の目安になると八代先生は言ったが、私自身そんな低い目標では納得していなかった。

八代先生を見返してやろう。そう思っていたのかもしれない。

県大会の日と打って変わってこの日は快晴。コンディションもいい。
いつもドウリ八代先生の車で岐阜の長良川競技場入り。

さっそく受付をすませ。プログラムを見る。

中学15「八代先生からの金言」

県大会が終わり東海大会の日まで,またいつものごとく一人で末広小学校で走る日々が続いた。

今思うと、すごい熱意に動かされていたと思う。

八代先生はというと私が東海大会に出るからと言って
特に僕に専門的なアドバイスやコーチングをするわけでもなくいつもドウリだった。
(ただ、愛知県チームのTシャツと 帽子を買ってくれた。これは気持ちのうえですごく助けになった。)

八代先生は本当にアドバイスをくれるタイミングがうまい人だったと今になり思う。

一宮市選手権の前日に僕は八代先生から後世に残る金言を聞く。

中学14

他の組のタイムにも目を移す。するとどうだろうか、11秒台の選手がやけに少ないではないか。
一応、上から順番に数えてみる、今回はタイムレース決勝だから、タイムの良いもの順に順位が着き
6位までが東海選手権に行けることになっている。

1.2.3.4.5.6と10回以上数えたと思う。何と私は6位に入っているではないか。
溝口くんは11.96で7位だった。

八代先生に報告すると、八代先生も何度も数えて、
「おお6位じゃん。これは喫茶店でジュースとケーキをおごらなくては」と八代先生なりの賞賛の言葉を頂いた。

初めて、校内で100mの選手に選ばれて以来、ここまで出来るとはと自身は驚いた。
自分以外の力が働いたとしか思えない。

反面やれば出来ると言う自信が付いたのは事実。
今までは山の高さを知らずに勝手に不安になっていただけじゃないのかとも思える様になった。

中学12

中中から県大会に出場するメンバーは私と仲井さんと言う一つしたの女子の2人だけ。

学校では臨時陸上部のメンバーの大部分は敗戦しており、事実上の解散をしている状態。
私は自身の出身校である末広小学校で一人練習していた。
特に専門的な知識があった訳ではないので練習は(200mを3本とか)

単調なものだったが、一人の練習が自分としては楽しかったのを(一人だと深く考え研究できるから)
良く覚えている。


さて、仲井さんとは小学校の時、通学団リレーで同じチームで走ったと言う思い出がある。

僕の陸上の基礎を作ったのはこの通学団リレー。末広小学校の運動会で最大の盛り上がりを見せるイベントだった。

町内ごとに割り振られた分団ごとにその学年で一番早い子が選手として選ばれ分団の威信をかけてレースする。

わたしが当時住んでいた花池1丁目は6分団と言って、6年連続で運動会で1位になっていた強い分団だった。

そのなかでも仲井さんの走りは優勝の原動力だった。


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そして、ついに県大会の日がやってきた。

八代先生の車に乗って私と仲井さんとで県大会に向かった訳だが、分団リレーの懐かしい記憶が緊張を解きほぐし、良い心理状態で試合に臨めたように思う。

その日は朝からの雨だった。
時折雷も鳴る天候で、最良のグラウンドコンディションでは無かった。

雷が鳴ったことで、試合は一時中断し再開の目途が立たない様子だった。
ようやく、雷は止まったものの雨は引き続き降っていた。

ここで八代先生から
「今日は雷の影響もあって一発決勝になったぞ。タイムレースで1位から6位まで決めていくから」
と言われた。

私が出場する組には何と通信を制した守山中の筒井君が居た。彼に勝つことが愛知県一位になる事を意味していたため、彼に勝つことが目標だった。

中学時代11

さて、西尾張大会を通過した私に待ち受けるものは愛知県中学選手権だった。

実は愛知県には2つの県大会があり、選手権と通信大会の二つがある。

陸上部のない中中は通信大会には出場していない。

今度私が出場する愛知県選手権の前に愛知県通信陸上大会があると聞き、偵察がてら
見に行くことにした。

私が瑞穂競技場に付いた時ちょうど3年生男子の決勝がスタートしようというところだった。
みると決勝には古知野中の溝口くんも決勝に残っている。

溝口君は序盤得意のスタートでリードしてたものの、中間に入ると、
真ん中のレーンの選手にこぼう抜きにされ、結局6~7位でゴールした。

勝ったのは守山中の筒井君。タイムは11.1台だったと記憶している。

愛知県にはまだまだ早い選手がいるなぁと思いながらも、僕だったって溝口君に勝ったのだから、
県大会では上位に入れるはずだし、筒井君にだって勝てるはずと根拠の無い自信を私は持っていた。

県大会は瑞穂運動場のオールウェザートラックで開催される。
一宮市出身の私にとってオールウェザートラックはまだ見ぬ世界であり、
当然、普段走っている土のトラックとゴムのトラックではゴムのトラックの方が
良いタイムが出ることは歴然だった。

だから、今度走る県大会ではもしかして、とんでもない記録がでるのでは無いかと内心思っていた。

中学時代その10

スプリンターにとって一番多い悩みは実はスタート。
多くの選手は以下の点を混同して考えていると私は思う。(当時の私も)
スタートとは
①リアクションタイム
②ブロッククリアランス(一歩目)
③スタートダッシュ(5歩目くらいまで)

今回、溝口くんは①と②について素晴らしかった。彼の持ち味でもあった。
わたしはというと、③が良かったと思う。

レースは溝口君が先行して私が追いかける格好。30メートルあたりでは差は変わらない
しかし、50~60mにかけて私のスピードが、まだ上げられる余地あるのに対して、
溝口君は既に最高スピードに達しているようだった。

「OK、行ける、これは抜ける。」

そう思った。私はスタートタイプの筈だが今回は後半に勝負をかけることになった。

80に差しかかりまだ溝口くんがリードする。

「抜けそうだ。」
と思い。必死にピッチを上げる。

最後ゴールラインで胸一つ溝口君を抑え私が先にゴールした。

ゴールした瞬間勝ったと分かった。

ここでも奇跡は起きた。西尾張出場の私が優勝してしまったのだから、

タイムは11.6ベストだった。溝口君も11.6で同タイムだった。
3位の人もたしか同タイム。


このとき県大会での再戦を誓った。

100を制した私が入っている、リレーも有力な出場種目だった。
決勝では1走の住田くんがほとんどトップグループでバトンタッチ
続く私は200は不得意ながらもレース構成が分かってきていたので
3番手当たりで山内君に渡す、ここで山内君激走!!!
一気にトップ集団に追いつく、そして、木村君に渡すそのとき
信じられない光景が目の前に広がった。

オープンコースになれていない木村君はとなりのコースに挟まれ止まってしまったのだ。

何とか障害になる人を掻き分け木村君は走り出したがとき既に遅し。

木村君は7位でゴールした。

陸上部でない僕らがここまでやったのは上出来かもしれないが、今思うとあれは
勝てたレースだったし、最高のメンバーだった。

山内君はチーム最速の200mの走力をもっていたが、

その後、高校では陸上部には入らず
ラグビー部に入部したらしい。あの走力で数々のトライを奪ったと聞いている。

村上君、住田君、山内君、森北君、今考えると、彼らが高校で陸上部に入り専門的なトレーニングを積み
研究を重ねていたら、陸上選手として、大活躍し全国レベルの選手になっていたと思う。

今考えると彼らが高校で陸上をしなかったことが残念でならない。

身体的ポテンシャルは私を上回ると感じたことが当時何度もあったからなおさらである。

中学その9(中3)

西尾張大会私は優勝するつもりでいた。

予選私は11.8で一着で予選を通過した。
全体では3人が11.8でトップだった。優勝が狙える位置に自分がいる。

少し興奮したのを覚えている。

リレーはというと、予選を通過して、決勝を待つばかりだった。

そして、100mの決勝。
隣のレーンには溝口君と言う古知野中学の選手がいた。聞くと昨年西尾張を制して
県大会でも入賞している選手らしい。

溝口くんに勝つことが、県大会で活躍できるラインらしい。
そう分かれば、俄然やる気もでてくる。

そして、スタートの時が来る。
号砲が鳴り、選手はスターティングブロックを蹴り一歩目を踏み出す。これをブロック・クリアランスと言う。
ブロック・クリアランス僕は良い感じだ。

しかし、隣のコースの溝口くんは更に良い。リアクションタイム(反応時間)が早いせいだろうか、私よりも
一歩先を行っているように見える。

~To be continued...

中学その8

西尾張大会
一宮市の中学には陸上部がある中学が少ない。
当然、西尾張大会になると、レベルは高くなり、
僕ら臨時陸上部と一年中走っている連中とのレベルの格差は歴然である。

だから、レベルの低い一宮市の大会で勝ち上がったからと言って、
決して楽観視できる訳ではなく、中中から勝ち上がった選手のほとんどは
西尾張大会で散ると言うのが通念になっていた。

僕らの中中にもそういう「ネガティブな言い伝え」がまかりと通っていた。

しかし、上昇思考の私はそうは思わなかった。特に専門的なトレーニングを
していないにも関らず、一宮市の大会で優勝していたことが自信となっていた私は
自分にはまだまだ伸びる余地が(陸上部の人たちよりも)まだまだあると思った。

一宮市選手権ではリレーも3位(記憶定かではない)だった為、
西尾張大会にはリレーも出場することになっていた。

リレーは4×200mリレーで山内君、住田君、私、木村君と言うオーダーだった。
そのなかでも、山内君、住田君は特に後半の走りが素晴らしく、100で一宮市を制した私よりも
200mのタイムトライアルでは良いタイムを出していた。

西尾張で十分入賞が狙える力を持っていたと思う。

試合にリレーで一緒に行けると言うのはメンタルに大きな助けになることは想像に難しくないと思う。
それが個人種目にも良い影響を及ぼす。

特に中学、高校生はスタミナが無尽蔵にあるので、メンタルさえ乗り切れば、
驚くほどのパフォーマンスをだしてしまうことが良くある。

普段生徒を良く観察しており、客観的にその選手のポテンシャルを知っているはずの顧問の先生でさえ、
想像することができないくらいの別人の走りをしてしまうのだ。

ここで私が強調したいのは選手のポテンシャルの限界をコーチが決めることはできないということ。


しかし、選手のパフォーマンスの向上を妨げる悪癖によってポテンシャルの限界を作り出してしまっている場合があるとき
                    (例:怠惰、無計画、不節制、不勉強、情熱が無い)
には管理するのではなく、その悪癖がどういう妨げになってるか自分で気づかせてあげて、
自分で自分を管理できるように導いて欲しいと思う。

(明日に続く)

中学その7

さて、次は西尾張大会なのだが、通常中中では市大会で入賞し西尾張大会に進む権利が得られても
自分の本体の部活に専念する為に西尾張大会を辞退する者もいる
特に女子バスケ部などは強いので辞退するものがいた。

ここですこし日本のスポーツシステムに付いて触れておきたい。
ここ日本でスポーツをするには学校のいわゆる「部活動」に参加していない限り競技を続けることは困難だ。

通常、部活というものは一人一つしか入れない。しかし、私は3年生の時に
臨時陸上部、臨時相撲部、そして本来の水泳部と3つの部活動をしていた。1日に3つの異なるスポーツを
していた。とても疲れたし、おなかが減ったのを覚えているが、すごく楽しかったし充実していた。

日本のスポーツシステムを改善するには子供にさまざまな選択をさせてあげて、経験させてあげること
が大切であると私は考えている。

途中で変えても良いし、もちろん何度でも失敗しも良い。
何個掛け持ちしても良いくらいの親と教師側の包容力というか余裕が欲しい。

アメリカでは1年を通して同じ部活を行う事はなく、大体3ヶ月ごとに、陸上シーズン、バスケットシーズン、野球シーズン、
フットボールシーズンとある。



ボー・ジャクソンという選手はMLB(野球)とNFL(フットボール)同時にプロで活躍した選手だ。

NBAウルブスのスプリューウェル選手は有名なスプリンターだったし、
女子100mのジョーンスは大学バスケのスター選手でもあった。
7種競技の世界記録保持者、ジャッキージョイナー・カーシーもバスケの選手として慣らした選手。

こう見ると、アメリカのスポーツが成功している理由はさまざまな種目を経験させ体力を付けてから
専門種目を選び出すシステムにあると思う。
対して日本のシステムは部活中心に一つの専門的種目を早い時機に決めさせ(強いるの意味も含む)(親が決めているのもある)
高い専門の技術と専門的体力で勝負するといった格好だ。
近年部活とは違う形でスポーツに貢献しているものがある。
それはクラブチームと呼ばれるものだ。
株式会社からNPOまでさまざまなスポーツ法人が出来ていることは良いことだと思う。
(すべては子供たちの為にとってよいことである必要がある。)

もう一つ親が子供に教えるといった親子鷹スタイルも成果を出している。

最近では、卓球の福原愛選手、ゴルフの宮里藍選手等が有名だ。

たとえ子供に才能があってもクラブに通うことが困難な場合はやはり部活に頼らざるを得ない。、


学校は部活のみをする場所ではない為にある意味で効率的なシステムが存在する。

効率的という言葉の中に重要度の薄いと管理者が判断するものは削減していくという切ない含みを私は感じる。
しかし、それがスポーツの出来る子と出来ない(とされる)子、勉強の出来る子出来ない(とされる)子
の格差をより広げる原因になると思う。

それは仕方ないことだとは思うし、100%悪いとも言い切れないと思う。



ただ、できない(とされる)子の隠れた才能を潰すことが効率的なのか、と矛盾を感じる。

人間が生まれる時、神から与えられた2つのGift(贈り物)
それは「肉体」と「選択の自由」

すべての問題の原因を追求し、改善し、解決することは困難なことだとは思う。
今のところ、解決できていない。問題は問題を生み出し、更に解決を難しくする。

しかし、ここで、考えてもらいたい。
その問題解決方法の一つが子供に選択の機会をたくさん与えてあげることだけだったら
私達大人は骨を折ってでも、その機会を提供してあげることは次の世代のバトンタッチという観点から強い「責任」と感じる。

今回、日本の部活システムについて触れたが、
各競技の試合のシーズンをずらすことによって、多くの埋もれていた、
あるいは発見すら出来なかったであろう才能が開花する機会を与えられることは明白だと思う。

中学その5

私が住む愛知県一宮市の選手権を勝ち上がって行くと次は西尾張大会があり、次は以下の通り
一宮市6位以内⇒西尾張6位以内⇒愛知県選手権6位以内⇒東海大会⇒全国大会(標準記録を切った者のみ)

そして一宮市選手権の日がやってきた。

この日は雨が降っていて、しかも私達が試合をする県営一宮運動場は今時珍しい土のトラックだ。
雨になるとグランドコンディションはこの上なく最悪で、トラックのあちらこちらにぬかるみが出来るトラックだった。

(しかし私はこのトラックが好きだ、高3の時にこのトラックで大会記録の10秒8を出したことがある。
古き良き時代を思い出すことが出来るトラックだ。
東京オリンピックのボブヘイズ選手はこんなトラックで9.9秒で走っことを考えると現在の世界記録保持者のパウエル選手と走っても遜色ないと思う。)

私と住田君は予選をそれぞれ組の1位で通過した。タイムも同じ12.4だった。

そして決勝、雨の中だった。
号砲がなり、私がスタートすると、前方にだれもいない。雨の中で前がはっきり見える訳ではないが
私が一位みたいだった。
「本当かよ、このまま走ったら一位なのか」と思いながら中間疾走に入った。

だれも追いかけてこない。

ラスト20mになる。後ろで足音が聞こえる。どうやら追い上げられているらしい。

そしてゴール。タイムは雨の為低調な12.1.しかし2位は12.3か4だったと思う。
結果私は圧勝だった。

住田君はというと、決勝は7位に終わってしまった。

自分が勝ったことが信じられなかった。

いや正確にはいつかはやれるとは思っていた。
でも、中学で初めて出場した100mで1位とは。

住田君は残念だった。

彼はその後、高校に入っても陸上部に入ることはなかった。
今思うと、彼のポテンシャルは私以上のものがあったし、本当にもったいなかったと思う。

その後、1500mでは1年生の時の私のライバルの森北君が出場。終始トップで走り優勝した。
タイムは4分39秒だった。私は中学1年から長距離のタイムは伸びずにそのまま、
でも彼はタイムを大幅に更新して1500で、優勝。わたしも100で優勝。

何か中学1年の頃を思い出して嬉しかった。

「ああそうか、おまえら強いんだ。」という八代先生の予言が成就した瞬間だった。

中学その4

3年になった。
私はこの年にやりたい種目があった。

それは走り幅跳。

2年の時に遊びで跳躍ブロックに行って跳んだら、
5m25跳べた。校内では1位だった。

出たい理由はこの種目は結構穴になる種目だと思ったからだ、
足の速い子はだいたい100m出る。

ちゃんと練習していけば6mを越えることは可
能と思っていたし、6mを越えていけば、
一宮市では6位まで入れる。そしたら、西尾張大会に行くことができる。

私はそのつもりで臨時陸上部が招集されるのを待っていた。

その年の体力テストの1500では1年の時のタイムしか出せなかった。
しかも走った後、すごくつらい。

しかし、私の筋肉は短距離化しているらしく、
私は50mを6.2秒で走った。

スターティング・ブロックなしで土のトラックということを
考えればかなり良いタイムと思う。
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今年も臨時陸上部が結成される時期になった。
今年は先生は私をどんな種目でエントリーするのだろうか?と考える。

その年臨時陸上部が結成される時、八代先生は私にこう告げた。
「吉田おまえは100でいくからな」

信じられなかった。100では勝機はないと思ったからだ。しかも今まで学校内ですら1位になれなかった種目。
一宮市で入賞するのは難しいと思った。

しかし同時に嬉しい気持ちもあった。小学5年生以来100の試合に出られるからだ。
心のどこかで、

「いつかスプリンターに戻ってくる。」みたいな気持ちはずっと温めていた。

しかし当時、自分のベストタイムから導き出して市大会でこれ位くらい行けるとか言う算出は出来なかった。

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臨時陸上部の練習が始った。

最初の日は記録会で始まった。

私はその日ためにスパイクを新調していた。

陸上部がない中中では高価なスパイクを個人で持っているものは少なかった。

だから、片落ちの古いモデルの(でもなぜか新品同様の)学校のスパイクを履いて
みんな試合に出る。

もちろん他の人は誰一人は準備せず、普通のシューズで走る中、私一人がスパイクで走った。

私は100を11.7で走った。学年で短距離が1番速い住田くんはアップシューズで
11.9で走ってしまう。いったい住田君はスパイクを履いたらどれくらいのタイムで
走ってしまうのだろうか?と私は住田君のことが気になって仕方ない。
タイムでは私が上回っているものの、 まったく勝った気がしなかった。

八代先生曰く、
「それくらいのタイムで走れれば、吉田も住田も一宮市の選手権では上に行ける。」
と言ったので、僕は純粋にそれを信じトレーニングした。

住田君と直接対決で今まで勝ったことはなく、住田君に勝つことが一宮市選手権の6位以内ライン
と私は考えていた。だから、異常に住田君に対してライバル心をもっていた。それは彼が神山小学校
出身だからということも起因していたように思う。


by福男こうちゃん

中学その3

そして私は中学2年になった。しかし、1500mのタイムは伸びなかった。その年の一宮市選手権には何とか代表になれたが、
欠員を埋めるような形。400mに出場し、結局62秒くらい掛かって
予選落ちした。

冬になり駅伝のシーズンが来た。前年一年生ながら選手だったわたしと同学年の森北くんは当然臨時陸上部に招集され
練習に参加していた。

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当時私は登校拒否をしていた。

その後学校に行きだしたが、午前中の授業は休んで給食の前から登校する生活。
何に悩んでいたのかあまり覚えていない。
今考えると、多分そのくらいのレベルの悩みだったのだろうと思う。
しかし当時の私にとってそれは小さな問題ではなかった。
毎日がブルーだった。僕は布団をかぶってずっーっと寝ていたかった。

当然基礎体力も落ちてくる訳で、担任だった田中先生は僕の好きな陸上で生活を整えようと考えたと思う。
それだけが理由なのか、どうか分からないが駅伝の練習は早朝に行われることになった。

当時の担任だった田中先生(体育の女性教員)は私を放課後呼んだ。
一向に生活が向上せず、陸上の方も一年の時の程走れていない私の生活指導をする目的みたいだった。

長距離が走れない身体になってきている私にグダグダいう田中(先生)にわたしはこう言い放った。
「俺はスプリンターだ!」

田中(先生)はそれ以上何も言わなかった。
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後日廊下で八代先生に会った。

八代先生はいきなりこういった。
「おまえスプリンターって言ったらしいなぁ」
といつものように少し間の抜けた語調で、にんまりしながら。

「ええ言いましたよ」と私は言うと。

八代先生は
「フッ」と微かに顔に笑みを浮かべ、それ以上何も言わずにその場を去った。

☆★☆
「当時の日記より。」

by福男こうちゃん

中学その2

当時のライバルは森北君と村上君。
私は長距離ブロックで3番手だった。

中中には末広小学校と神山小学校の卒業生が毎年入学してくる訳だが、
わたしのいた末広小学校で一番速かったのはわたしではなく、
5年生の時転校してきた村上君だった。
彼は転校してまもなく、冬に毎年行われている持久走大会でいきなり1位になり、
一躍全校のヒーローになった。
わたしはと言うと、驚異の転校生出現もあり、結局小学生の間、一度も校内で一位になれなかった。

森北君はお隣の神山小学校の出身。
彼とは1年生の時同じクラスで、彼はサッカー部だった。
毎年春に行われる体力テストはわたしのような、スポーツを生きがいにしている人間にとって大きなイベントだった。
なぜなら、ここで良い記録をだすと、陸上の大会に招集されることを知っていたからだ。

だから、体力テストは体育の授業の一環でしかないんだけれども、選考会みたい認識だった。

森北君とはじめて対決したのはその体力テストの1500m。

森北くんが先行して、わたしが追いかける格好のレースだった。
最後の一周のスパートで抜かす予定だった。短距離走だったら断然わたしの方が速いから。
最後の一周わたしはすべての力を振り絞って走った。差は縮まって行く。
「OK、行ける」と思った矢先、森北君もスパート、最後の直線に入った。差はほとんどなかった。

わたしは懸命にスパートした。
体力テストにも関らず、陸上の試合張りにゴールラインではトルソーを出してフィニッシュまでした。

しかし、結果は森北君が勝った。胸の差で。
私は2位。タイムは同じ5分25秒だった。

当時八代先生という先生が僕らの体育の担当だったが、
「おまえらなんでそんなに強いのか?」

「ああそうか、おまえら強いんだ。」
と、意味不明の言葉を発する。

その時、その言葉は理解できなかったが、
中3になり初めてその意味が理解できた。(八代先生の予言が)

八代先生は過去に愛知県選手権を2度優勝したことのある
400mランナーだった。
こんなに良い指導者が身近にいながらもあまり専門的な指導を私は受けていない。

しかし、その時々に象徴的な言葉のアドバイスを頂いたことを覚えている。
私が大学生になり陸上で成果を上げ出した頃、「コンディションこそ命」という陸上のスタイルを築いて行くのだが、
それは八代先生の言葉「さぼり“バネ”」という言葉がきっかけだった。

当時水泳部に所属していたわたしはまず、水泳で(多い日は)3キロくらい泳いでその後、5キロ走り、相撲の練習を1時間といった毎日のトレーニングをしていた。きつかったが走ることが大好きだった。

いま考えると、よく単調な練習を好き好んでやっていたなぁと思う。

今考えると、専門的知識がない先生が作った単調なメニューだったのは明白。

でもそれは僕を陸上好きにするには十分だった。

中学その1

今日は私が中学生の時のお話をしたいと思う。
↓↓↓こうちゃんラジオ再生(4分38秒)↓↓↓



中学生の身体の成長というのは驚くべきことだと思う。わたしも身長が7~9.5センチくらい伸びて、身長が162.5cmになった。それでも小さな方だった。でも自分の中で180cmになる予定だった。

父が身長が高く(173センチ)、わたしも素直に背が伸びると信じていた。その頃、毎年7~9センチ伸びていたからだ。
しかし、中三を境にわたしの身長の伸びはストップし始め、終に高校1年で現在の身長165センチに止まってしまった。

さて、話しを中学時代の陸上の話しに戻そうと思う。そんな体格が急激に変わる思春期に在って成長の遅かったわたしは中学に入ったとき学校の代表にすらなれないほどだった。

中学1年の50mのベスト記録は7秒1。50m走では6秒台を出すことが出来なかった。逆に長距離は結構得意でその年の体力テストで1500m5分25秒で走った。(その後練習で5分を切った。)

だから、僕は短距離ブロックではなく長距離ブロックだった。

でもやっぱり短距離への未練は残る訳で、羨ましそうに短距離の練習を見ていたのを良く覚えている。

わたしの所属していた愛知県一宮市立中部中学校、通称「中中(チュウチュウ)」には陸上部がなかった。近年グラウンドが狭いことも災いして一宮市の中学校では陸上部をなくしていく流れがあった。3年前には中中にも陸上部があったのだが、その後、新入部員を募集しなくなり、陸上部は消滅していた。だから陸上部は試合の前だけこうやって結成される。

一年の時、長距離チームにいたわたしだが、結局一宮市の選手権の選手の2名には入れず、三番手で悔しい思いをしたのを覚えている。しかし、冬に行われた駅伝には1年から2年の全校生徒の中で選手になり、大会でもそれなりに
走れた。この頃は本当に疲れ知らずだったと思う。

啓介~僕らのヒーロー

今日は啓介を紹介したい。

啓介は学校の番長のような存在だった。

そして、中学2年、3年と同じクラスだった。
(これは偶然ではなく、お互いに問題児だったから
学年主任が受け持ったのだと後から分かったのだが、)


でも、啓介君とはなぜか分かり合えるものがあって
彼とは仲が良かった。私がかなり失礼なことをして啓介がキレた時でさえ、
彼から暴力を一度も私は受けた事がない。

僕は彼を「啓介」と呼び捨てにし、彼も僕のことを「光一郎」と呼び捨てにした。
(啓介のことを呼び捨てにする人は校内でも数人だった。それほど恐れられていた。)

選抜の陸上部が結成された時、彼も選ばれた。啓介に100mを走らせたら、
多分学年で4~6番手あたりだったと思う。
しかし啓介は天性のバネがあり、ハードルや走り高跳びでは郡を抜いていたし、
私も勝てなかった。

市選手権の選手と種目が発表される時、私は耳を疑った。なんと啓介は高跳びではなく200mにエントリーすることになったからだ。その時、彼自身も信じられないと言った表情だった。

市選手権では(日ごろの喫煙の影響もあり)200mを走った啓介にいつものようなエネルギー(反骨精神、なめんなよ、笑、みたいな)
は感じられず、予選の落ちに終わった。

その後、校内の体育祭で走り高跳びに出場した啓介は見事優勝した。記録は1m70cm。

その記録は市選手権の入賞ラインを超えるものだった。


啓介は昼間に体育館のトイレ鍵をこっそり開けておいて夜中に学校で高飛びを練習していると本人から聞いた。

それほどの才能とやる気と意欲がある子供の才能はまた一つここで埋もれていった。

普段の素行によってのみ人を判断してしまった大人によって。



しかし啓介はただでは終わらない男だった。もう一つの臨時の部活動。相撲部で彼の才能は開花する。
3年になり、臨時相撲部が結成された時、私と啓介は招集が掛からなかった。2年の時に練習に参加していたにも関わらずである。
それを良しとしなかった啓介は私を呼び

「光一郎これから、松永先生のところにいって、直訴する。選手に選ばれたあいつらに負けないと思うから、一緒に行くか?」

と言った。私も啓介ほどではないが相撲には自信があったので、一緒に松永先生のところに行くことにした。
多分、啓介は一人では松永先生のところに行きづらかったのだと思う。だから私を誘ったのだろう。

啓介と私は職員室に入り、職員室のひときわ奥のほうにある松永先生の机に進んでいった。
そして啓介は松永先生にこう言った。
「相撲の練習に参加させて欲しい。そして実績が上がれば大会の選手として欲しい。」

松永先生は「よし分かった。明日から参加してみろ。」
と言い僕らは相撲の練習に参加できることになった。

結果、啓介は陸上部、相撲部、野球部という3つの部活を兼任することになった。(私は、陸上部、相撲部、水泳部)

啓介は見事レギュラーの座を勝ち取り、一宮市中学相撲大会に出場することができた。

僕らにとって啓介はヒーローであり、学校で一番強い男だった。
啓介は自ら志願し、それを証明した。
やはり、啓介は最強だった。


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